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岩波ホールの高野悦子死去。思い出す「二十の原点」随筆家もう一人の高野悦子


2月14日世間ではバレンタインデーの日に岩波ホールの総支配人で海外映画と日本への架け橋とした文化功労者高野悦子が大腸がんのため亡くなりました。 imagegff.jpg この高野悦子さんは日本で上映されることの少ない国々の映画の上映を目的とし、世界の埋もれた名作映画を発掘し上映する運動「エキプ・ド・シネマ」を発足に尽力し、 客席数200余りの劇場で独自のプログラムを組んだ映画興行方式は、全国に広まるミニシアターのを作った先駆者として日本映画界に貢献されました。 また、私はこの高野悦子さんの死と同時にこの、もう一人の「高野悦子」という人物を思い出しました。随筆家として、20歳という若さで鉄道自殺で自らの命を絶った大学生の女性です。 この「二十の原点」という本は高野さんの死後に発見され、出版され 当時ベストセラーになり話題になったそうです。 それは私がが生まれる前の話で世代も違うのですが、19歳の時に書店で見かけてなんとなく手り、読んでみると、そこには私が経験したことのない暗黒の世界が広がっていたからです。 この人はまだ二十歳の学生なのに なぜここまで深く突き詰められるのだろう 自己を内省することができるのだろう というのが私の素直な感想でした。 しかし、その中にも私が惹かれるところもあり、なにしろこの日記が自殺という結末を迎えること それが作り話ではなく現実の話であるということが 強烈な余韻を残します。 以下、高野悦子の半生 1969年、高野悦子は二十歳だった。立命館大学文学部史学科日本史専攻の3回生。学生運動の嵐が吹き荒れている時代だった。 1月15日成人の日の日記に「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」と記す。 一時期、部落問題研究会(民青系)に入会するが、1969年になり、全共闘運動が起こると参加を決める。しかし、同じ運動のなかで敵対する党派が存在することを彼女は理解出来なかった。そのことが、他の様々なことに対しても向けられていき、結局は自分が未熟であるという認識に落ち込んでしまう。 学生であることに引け目を感じ続けた彼女は「労働者」になるべくアルバイトを始め、仕送りは家賃のみに使い、後はバイト代でまかなった。しかしこのバイト先で、彼女は失恋してしまう。やがて疲労は積もり、大学にも仕事にも疲れきってしまった。 そして1969年6月24日未明、線路に入り貨物列車に身を投じた。死後、下宿から10数冊にも及ぶ大学ノートに綴られた「日記」が発見された。父親によって整理され、同人誌「那須文学」に掲載され大きな反響を呼び、1971年新潮社より「二十歳の原点」として刊行された。
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